my hometown わたしの十勝
小室雅伸
大学進学で帯広を離れるまでの十八年間は高度成長期の真っただ中で、大学卒業間近にはオイルショックがやってきました。建築家になって、昔の暮らしや住宅などを振り返ることがしばしばありましたが、ものすごい勢いで変わっていった時代でした。
帯広の生家は平屋の下見板張りで、隣は畑で売買川まで家はなかったと思います。冬は小学校への道すがら馬そりが通りかかると、そっと後ろから乗るのが楽しみでした。三輪トラックが走り、外車など見かけたら大ニュース。家電といえるのはラジオだけで、テレビアンテナが立つ家がうらやましく、大相撲の若乃花-栃錦戦は隣家にお邪魔して見せてもらいました。
秋にはまきを割り軒下に積み上げ、冬が近づくと石炭が運び込まれます。窓をビニールでふさぎ、漬物用大根を縄で編んでぶら下げて干します。ストーブが茶の間に持ち込まれると、とたんに狭くなります。最初は時計形のまきストーブ、その後はルンぺンストーブに湯沸かし槽が連結されて一段と狭くなりました。
透明だったビニールが曇り、石炭小屋の落とし板が全部外れると、春が近づいています。窓のビニールが外れストーブが取り払われたとたん、広々とすがすがしくなって春の到来が実感できました。
建築を学ぼうと思い始めたのは中学卒業のころ。美術の教科書の「落水荘ライト」とだけ記された写真が気になっていて、「荘」の字が付いているから住宅に違いない、こんな住宅もあるのかと眺めていたのがきっかけでした。
大学でその住宅とカラー写真集で再会し、すばらしい世界に入り込んだと感動しました。「ライト」とは旧帝国ホテルを設計した米国の世界的な建築家「フランク・ロイド・ライト」であることも知りました。過去の建築を知ることも重要ですが、建築の最新情報をつかみ、何が起こり、どこに向かっているかを考えることで精いっぱいでした。
大学を終え、恩師の推薦で札幌の大学で設計を教えることになり、実際に設計する機会もできました。よし、思う存分やるぞ、と意気込んだものの、北海道に建てるからには寒さへの備えが絶対条件。イメージだけで温暖な地域のスマートさを追い求めても、実現できません。それなら寒さへの備えにがっちり取り組もう、そこから生み出すものはこの地ならではの独自性を備えた建物になるに違いない、と目標が定まりました。
寒地住宅研究から多くを学び、暖かく丈夫で、ローコストの建築を追求し始めました。ブロックを二重に積んで間に断熱材を詰める外断熱工法に取り組んだのは二十一年前、四軒目の住宅から。床、壁、屋根、窓の性能を高め、設備への依存度を小さく、シンプルに造ろうと考えました。
大学を辞し設計に専念してからも方針は変えず、新たな技術を取り込むと共に昔の建築、生活の知慮に重要なヒントがあることにも気づいてきました。伸びやかでおおらかな広がりのある空間を生み出したいと考えてきたのです。
それは多分、小学生の数年間を過ごした鹿追町の景色、緩やかにうねる畑の広がり、一直線に連なる防風林、十勝晴れの青空・・・が原風景になっているからでしょう。昔の面影を伝える街の風景は変わっても、日勝峠を下り始めると、帰って来た、といつも心の中でほっと一息つくのです。
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